ギャラリ−KAI
陶器、磁器、ガラスのうつわなどを扱っています。
2008年末まで東京は文京区目白台で営業しておりました。
この度、豊島区の自宅でギャラリーを再開しました。
どうぞよろしく!
先日久しぶりに日本橋へ出掛け、
前から気になっていた骨董品店の
暖簾を思い切ってくぐってみた。
うす暗い店内には、器から家具まで
店主の好みが感じられるものが
余裕を持って美しく並んでいた。
ゆっくりと見回している中で
ふと気になったのが、
「見立ての茶箱」。
何年もかけて、あちらこちらを
探し歩き、巡り巡って店主の
手の中に落ちてきたものたち。
その中から選び抜かれたものが
一式の茶箱にしつらえられて
展示されている。
見立てなので、茶箱用に作られた
茶道具ばかりではなく、仏具が
あるかと思えばガラス製のもの
があったり。
一つの箱の中には、この見立てに
たどり着くまでの長い長い時間と、
店主が慈しんできた小さなおままごと
のような世界が詰まっていて、私は
すっかり見惚れてしまった。
私のそんな様子に気が付いたのか
なんとなしに会話が始まり、
「茶」つながりでお抹茶の話になった。
聴けば、店主は毎朝ペットボトルに
お抹茶をシェイクしたものを一日中
持ち歩いて飲んでいるのだとか。
「おかげで、風邪知らず、
疲れ知らずですよ。」
母と暮らしていた頃、三時のおやつ
は欠かせない大切な日課だった。
そんな時、時々お抹茶を点てた。
「また、お抹茶が飲めるなんてねえ。」
カーテン越しに、午後のそろそろと
傾きかけてきた西日が差し込んで
いる部屋の中で、母は一口、一口、
目をつぶってゆっくりゆっくり、味わって
いる。
お抹茶の鮮やかな新緑の色が
オレンジの日差しのまんまん中で
たゆたっている。
あと何回、点ててあげられるかな。
そんな母の姿を見ながら
声にならない声を胸の中で
つぶやいていたっけ。
背筋をピンと伸ばして
戴くお茶室の一服も貴いけれど
身の回りに有る物で
不作法に点てる一服のお茶を
飲んでくれる人がいることの幸せを思う。
その人の五臓六腑に染み渡り、
この瞬間の口福を感じてくれたなら。
悔いのほんの一隅でも埋めることが
できるだろうか。
いつの日か、私の欲望も枯れた頃、
器遍歴の終着点は一つの茶箱に
なるような予感もしている。
さあ、これから一服のお茶でも。
そして6月といえば「茅の輪くぐり」ですね。
茅草で作られた大きな輪を左まわり・右まわり・左まわりと、
八の字を書くように三度くぐり抜けることで、半年分の災厄や
疫病、罪などが祓われるといわれています。
誰でもくぐることができます。
紫陽花がようこそと迎えてくれますから一年の中でも
なかなか楽しい参拝です。
今年は、昨年から係わってきた仕事が6月に一段落。
一大事が過ぎ去った後の持って行き場の無い
気抜け状態の自分をここで一度リセットするという
意味合いの方が強いような気がします。
秋以降のギャラリー、準備してまいります。
皆さまも健やかな時をお過ごしください。
朝起きたらまず、お湯を沸かします。
哀しいかな、まだご縁が降って来ず。
沸かしている気になりながら、毎度のケトルで
沸かしたお湯を湯呑に注ぐと、それを持って
和室に移動します。
しつらえた、自称「磐根ちゃんスペース」
で友人が以前送ってくれた線香を一本点します。
天井へ向けてたちのぼっていく中で、
一口一口。
身体も少〜しずつ目覚めていきます。
今、生きている人のためのものだよね」
いつもと同じような朝を迎えて
2017年も明けました。
自分の家のこの部屋で、こうして元旦の朝を
過ごしていることに不思議な感情を覚えます。
一杯の白湯の温もりに、「何事もない」ことの
貴さが膨れ上がります。
始まりの年なんだなとつらつらと考える。
お正月だったからです。
大掃除だ、お節作りだと慌ただしいこと
この上なく、毎年辟易しながら、大晦日を過ごし、
「紅白」が始まる頃に、ようやく一段落つくと
お菓子やみかんを食べながらのテレビ観戦。
鐘の音が、しんしんと冴えわたる夜のしじまに
微かに響いてくるのに、懸命に耳を澄ませていると
年が明ける。
続けてきましたが、それは自分の隣に
父がいて母がいて、彼らが作ってきた
習慣をずっと繰り返し、なぞってきたことに
今年ほど、気づかされたことはありません。
痛烈に感じる年越しなのかとちょっと
覚悟をしていたのだけれど、ここ2日間を終えてみると
哀しみとは明らかに違う何かが自分の中で
芽生えたなと感じます。
・・・がめくられたといいましょうか。
違うことが、この上なく、新鮮です。
大晦日の夜は更けていく。。
どんな風なお正月を私たちは
作っていくのでしょう。
一生のうち、一度はやってみたいと
密かに野望を巡らせている年の初めです。
これからの出会いに
感謝の気持ちを大切に
一年を過ごしてまいりたいと
思います。
一年ぶりに学生時代の友人と
3人でお昼を食べに出かけました。
友人ご用達のフレンチレストラン。
同じレストランで食事しましたが
すっかり気に入ってしまって
今年もリクエストしてしまったのでした。
乳脂肪たっぷりの正統フランス料理、
ましてやコースとなると、かなり
きついものがあります。
そのヴォリュームは絶妙。
繊細な感性のかけらがちりばめられた
一つ一つのプレートは、美しく、滋味に溢れ
しみじみ美味しく素晴らしいものでした。
食事を心ゆくまで楽しむ大人たちを
見ているのも気持ちが良いものです。
3名のご婦人方がいらしていました。
過ぎていらっしゃるであろう面々。
長年の友と旧交をあたためていらっしゃったのでしょう。
フルコースを召し上がっていました。
あとのお二方もお洒落に洋服を着こなしていました。
周囲に緊張感を与えない絶妙なゆるさは
さすがです。
フレンチのフルコース。
そのライフスタイルは、自身の身体の
状態に左右されます。
フランス料理を友と愉しむこと。」
生きる力を戴いたような気がしました。
人生の妙!
秋の一日に感謝。
左膝を地面に突いたのが原因で骨折。
踏みとどまったため、手術は免れ、添え木を当てての
自宅療養。
突入することひと月半。
晴れて、今日、整骨院の先生に「もう大丈夫」という
お墨付きを戴き卒業と相成りました。
こんな姿でごめんなさい。。と心の中で
申し訳なく思いつつ、Be a Pal!のお二人の
多大なるフォローを戴いて最終日を終わった時は
心の底からほっといたしました。
アスファルトは、硬かった・・・。
唸っていた時以来の、得意のお籠り生活でした。
そういう境遇になって初めて分かることも
多かったですが、
早く歩いているんだろうということ。
歩いているときも
歩道橋の階段を一段一段上っているときも
弱い人になってしまったのだと自覚させられます。
今まで、街でも駅の階段でも身体が不自由な方を目に
することは日常的といってもよかったけれど、
自分は平然と追い越す側にいたのだなあと。
と外出をしたときのことです。
私たちの目の前をお年寄りの方が歩いていました。
みるみる距離が縮まってしまい、
そのまま追い越そうかというタイミングで
母がすっと身を引いたのです。
私が見下ろしてしまうくらいに、身体の小さい母が
他人のことをこんなに思いやっていることに
心打たれました。
自分は、追い越し、追い越しで
ここまで来ていたような気がします。
痛みだとか、筋力の衰えに向き合わなければ
ならないし、生活は不便になるし、
周囲にも迷惑をかけるしで、大変なことばかりです。
気づくようになります。
とっても昔からやっている町のパン屋さんを見つけたりだとか。
なれたりします。
集中力も高まります。
できるようになるので、それこそちょっとだけ
優しくなれるような気もします。
置き忘れてきているような感覚が無くなるといったら
いいでしょうか。
小走りもできるようになりました。
たぶんどなたも気がついていらっしゃらないと思いますが、画面右側の列、本の紹介のずっと下のほうに、ARCHIVES という見出しがあり、記事が月毎にリンクされているコーナーがあります。
すると何やらJune2002とかNarch2001とか。
こんな昔からブログなんてなかったろう、という日付。
実はこれ、当時のホームページで「店主敬白」というコーナーを設けて店主(toku)が書いていたものを再掲載したのもです。とりあえず2年分を1週間くらい前にアップしました(裏方仕事ですね)。日付はそのときのものです。
あと2年分さかのぼる予定です。ぼちぼちいきますので、時々注意を払ってみてください。
また、CATEGORIES の店主敬白から掲載分のすべてを見ることが出来ます。
ここ2,3日は、店主が京都ですので新しい記事の掲載は無いと思われますが、
よろしければ昔の話でも見てみてください。
by syu
道に目をやると、おっ!いたいた。久しぶりのお出ましだ。
それとも最近気忙しくて、まるでいのししみたいに自分の行く先しか
見ていなかったのかしらん。
通称 「ボヘミアン」
推定年齢「70歳」(人間でいうところの)
性別:不明
種別:犬
私のご近所にこんな住人がいることを知ったのはもう3、4年も前のことです。
初めての出会いもかなり印象的。
道のど真ん中に座っていたのですから。
そのあまりの、無防備さに、バカがつくほど犬好きな私も、一瞬ひるんだ。
思い切って、そーっと近寄って、「これこれ」と呼びかけても、聞こえてるんだか
聞こえていないんだか。
まるで反応がない。おかしいなあ。病気なのかなあ。ひょっとして弱ってる?
「犬好き」な人のことは、犬のほうでも瞬時にキャッチするから、普通は喜びの
表情を見せてくれてもいいのになあ。私もこれまで、テリアの「チロン」とか、
ビーグルの「ラヴ」とかシーズーの「アイ」とか、数々の犬と仲むつまじい時を
過ごしてきたのに。
そして、彼らはいつだって、この膝に飛びついてきたのに。
それによくよく見ると、この犬、容貌も、結構情けない。いじりまわされて、
毛もくたくたになってしまったぬいぐるみみたい。年齢もその風貌からすると
人間でいえばとっくに定年を過ぎた頃と思われる。なんといっても覇気がない。
ある時は、する〜り、する〜りと歩いていた。それも微妙に道の真ん中を斜めに
よぎったりする。
最初は、こんな都会で野良犬かしらと行く末を案じたりもしたけれど、あまりにも
周囲に動ぜず寡黙な様子に、最近では、仙人のようにも思えてきた。
こんな町中にいるより、切り立った岩場の洞穴あたりにいたら似合いそうな。
ある時は、また、思い切って手を伸ばしてみた。首のあたりをなでてみたら、
しばらく私の顔をじっと見つめてから、ゆるりと背中を見せ、またそろ〜り、
そろ〜り、歩いていってしまった。
一体、どこに行くのだろう。その時は、私もしばらくその後姿を見送っていたら、
とある一軒の家の中に消えたのです。
そこは、私も以前からよく前を通りかかる仕出し専門の家でした。
ああ、やっぱり住処があったんだ。
ほっとする反面、なんだかおかしくなった。
私の住んでいる界隈でも、犬を飼っている方は多く、小型から大型まで主流は
人気の洋犬。
みんないつも楽しそうにお散歩させてる。犬を飼っている方同士のコミュニテイも
たくさんあって、犬を介してのつながりというのは、私の想像以上。犬を飼ったこと
のない私は羨ましいやら、ちょっと大変そうと思うやら。これは現代の一大現象
でもあります。
そんな中で、こんな風にお互い、干渉せず、されずに生きているなんて。
あくまで自分のペースで淡々と日常を過ごしているこの犬は、
私のまぶたにくっきりと焼きついて離れないのです。
時に見せる表情は、「自分の身の処し方くらい、十分承知しているよ。」
と言っているよう。
そんなわけで、帰る家がわかっても、私の中では「ボヘミアン」。
今度会ったら、また話しかけてみよう。
「こんにちは。ごきげん、いかが?」
こちら東京では、桜があれよあれよという間に
咲いたかと思うとさっさと散ってしまいましたね。
いつもだったら4月の中旬あたりから見頃を迎える
隣の家の八重桜は、今、まさに満開。
季節は確実に早まっていて、このままいけば・・・・
20年後の季節感もひょっとしたら変わっているかも
しれません。
古来より私たちに染み付いてきたものだのに
それが変わってしまうとなると、かなり革命的なことのような
ちょっと勘弁してほしいことのような、そんな気がする今日この頃です。
さて、今日もとっても元気な齢85歳の我らのOさんが、またとびっきりの
笑顔でご登場。月に一度の散髪の日であったらしく、頭もこざっぱりして
いつにも増して良い顔をしていらっしゃる。
「今日は、月に一度のおめかしの日なんだけれども、ついでに、
下の店まで買い物に行ってきましてねえ。」
この場合の「月に一度のおめかし」とは、散髪のこと。「下の店」というのは
KAIから目白通りを下って10分くらいのところにある野菜やくだもの、
お魚や乾物などを商っている小さなお店のことなんです。
さてさて、ワサワサと買い物袋からまず、取り出したるは、エリンギ。
無類の料理好きのOさんは、このエリンギを割り箸くらいの太さに
縦に割いて、細く切った煮出し昆布と一緒に佃煮にするそうな。
う、美味そう〜。。。!
白いごはんの頂上に鎮座したエリンギの威容で頭が占領されつつあった私の目に
次にとびこんできたのは・・・
なんと大きなビニール袋一杯の煮干しであった。
実は、先日Oさんと、
「お味噌汁はやっぱ、煮干しの出汁に限りますよね〜。」
なんて、同じ瀬戸内のDNAを持っている者同士、意見の一致を見たばかり。
「いやあ、煮干もものによっては、頭と腹を取るとこ〜んなに小さくなっちゃったり、
身がこなごなになっちゃったりするんですよね〜」
と私が訴えたら、「そんなことないでしょう」と
ひどく訝しげな顔をなさる。
聞けば、Oさんはかなり立派な煮干しを使っていらっしゃるらしい。
私は、どちらかといえば、小振りなものがお上品で良いわ などと、殆んど趣味で
選んでおりましたが、出汁をとるとなるとそれじゃ、役不足らしい。
そんなこんなで、とことん、実証主義のOさんは、私めに、煮干なるもの、
これぞやと、示すために即実行。
てなわけで、袋いっぱいの煮干なのでした。
(Oさんて、ホント行動が早いのなんの。そのフットワークの軽さには
いつもいつも頭が下がるところです。)
しかも、頭と腹を取って二つに割くという実演のおまけ付き。
Oさんの実演はこれまでも多々ありまして、例えば、
お正月用の金柑の種取り編だとか、
使いふるしてきた鍵を通り易くするためのやり方だとか、
極端に細長〜いものを最小の紙で包むやり方だとか、
大きな物を風呂敷きで包む方法だとか・・・
一番最初にKAIにご登場の際には、いきなり太極拳が始まりましたからね。
その無尽蔵な知恵袋の恩恵にいつもいつも大助かりの私でしたが、
まさか煮干しまで登場するとは思わなんだ。
ギャラリーKAIとは、一体どーゆ〜店なんだ。
ついでに、Oさんによれば
なぜ、「煮干」と呼ぶかというと
海から獲ってきたら一度煮てよく干すからだそうで
まったく読んで字のごとくですね。
良い煮干を選ぶコツは背筋がしゃんと伸びているか、または、
エビ反りになっているものを選ぶこと。
内側にくるんと丸まっているのはダメだそうです。
そしてよく乾燥していること。なんとなく、湿っぽさを感じたら
風通しの良いところで干してカチンカチンにすることが肝要。
Oさんの子供の頃は、煮干しから取った頭ばかりをすり鉢で擦って、それに
桂皮を加え、ごはんにかけて食べたそうです。
また、焙烙で丸ごと煮干しを炒ってから、練り味噌をつけて食べたりとか。
う〜ん、お酒のつまみに良さそうじゃないか。。。。
ちなみに今は、取った頭と腹はまとめておいて、植物の肥料にしているのだ
そうです。
・・・というわけで、今日も至極有意義な一日でありました。
またまた、Oさんから大事なもの、戴きました。
いつもいつも感謝です。
かくして、この煮干の一山が、私のこの事務机の上に堂々そびえております。
いくつもの煮干の目に見つめられていますと
にゅ〜HPの構想を練らなければ・・・と思いつつ
ついつい、今日の晩御飯の算段をしてしまう私。
よし、決めた。
このとびっきりの煮干をたっぷり使って
極上のけんちん汁を作ってやろうじゃない!
そんなわけで、袋一杯の煮干を抱えて一目散に家に帰るであろう
幸福な私なのでした。
あ〜あ、なんて時は無情で、残酷なんだろうと思いながら今年も一年、
やり残したこと、あったかいな〜などとぼんやり考えてみたりする今日この頃です。
皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。
やり残すということで、歳時記的に言うと、今年のあそこの桜は見なかった とか、
海に一遍も行かなくって、かき氷を食べる間もなく、夏らしいことなんにも
しなかった!と騒いでいるうちに9月になって、中秋の満月も拝めずじまい。
そうこうするうち、紅葉のシーズンも瞬く間に過ぎ行きて大晦日。
お正月がきて、気がついたら豆まきが終わってたとか。
と、まあ、色々あるのでしょうが、やはり何とも悔やまれるのは、食べ物の
たぐいでしょうかね〜。
ハウス栽培で今や四季が無いなどと言われつつも、この時期にしか出ない野菜
とか果物、旬のお魚などありますよね。
私などは、例年、「根みつば」には、命かけてますが、今年は、畑を持っている
友人のおかげで、春のたけのこにはじまって、うど、菜の花、グリンピース、
そら豆やにがうり・・・などなど、うんうん今のところ、順調、順調とほくほく
顔で、きたつもり。
それで、秋です。ここにきて、ひときわ、力が入ったのは、「栗」なんですね。
それは、10月の20日ごろでしたか、四国から家に来ていた友人とひとしきり
食べ物談義に花が咲いた後の一言。
「もううちのほうでは栗終わっちゃったよ。」
ショックすぎて二の句がつげない私。
何を隠そう、去年の秋は、まあ〜だ大丈夫だろうとタカをくくっていたら
いつのまにか食べ損ねてた。
さあ、今日はやるぞッとばかり、近くの八百屋、スーパーを探し回るも愛しき
栗はもうあと方も無かったというしごく苦い経験があるのです。
不思議なことに野菜とか果物ってある日から、ぱったりと姿を消すこと
よくあるもんです。そうなると近所中探してもどこにもない。
かくして今年は去年の二の舞は踏んでなるものかと、走る、走る。
ところで栗というのは、かなりハードルが高い食材のひとつです。
なんといってもあの硬い皮をむくということからして、相当の気力の充実かつ
綿密な計画性が求められる。
前々から○日は「栗の日」と自ら、呪文のように言いきかせ、買いに走ったら、
その日使う分だけの栗と残しておく栗に分け、残しておく栗は濃い塩水に
つけておく。(こうやると虫がわかない・・ということをどこかで読んだ。)
本日登場分は皮をむくためのお湯を沸かして
(注:熱湯に20分つけてから皮をむくとむきやすいらしい)
広告紙をちゃぶ台の上に広げまわし
(それでも皮の残骸がたんすの脇に転がっているのを後ほど発見されたりもする)
○時ごろから皮むきにスタンバる!!!
かくして、栗の皮むきの格闘が始まる。
いつ手の指にナイフがぐさっとという惨事も起こりかねないというしごく危険な
状況下、虫がひょっこり、でてきたらどうーしょーという恐怖にかられつつ、
ひたすら集中、集中。終わった頃にはほぼ脱力状態に陥りつつも
栗ごはんの夢に向かってゴ〜。
こうして、今晩の食卓には、めでたく栗ごはんがお目見えなり。
こういう時、土鍋の蓋を開ける瞬間はもう、ブラボーの嵐。
歓声をもって栗ごはんを迎えるのが王道といえましょう。
まあ、そうはいっても実は栗ごはんのレシピに関してはまだまだ発展途上。
レシピも料理研究家によってまちまち。前もって栗だけゆでこぼしてから
再度薄味で炊いて、ごはんと炊くのだの、昆布やお酒やおしょうゆを入れて
炊きこむだの、鶏肉やきのこと一緒に炊き込むだの、渋皮を残して炊き上げた
方が風味が良いだの、塩とお酒だけのシンプルな味付けに限るなどとまあ、
いろいろある。
何と行っても一年のうち、栗ごはんを作れる回数は限られているのだから
これだけ全部試すだけでも大変だ。
わたしにとってのこれが栗ごはんというのが見つかるまではあと
何年かかかるなあ。
栗ごはんと同じくらい私好きなのは、煮物の中にまぜこんじゃうの。
今のお気に入りは里芋と鶏肉の煮物に栗もいっしょに煮込むという一見地味な
料理。でもこれがまた。。。。至福の時。
里芋かと思って食べてみたら、あっ、栗だった!!なんてとっても嬉しいと
思わない?
しかし。。。われながらなぜ、こんな栗ごとき一介の食べ物にここまで
書くかなあと半ばあきれた状況です。
要は、栗が大好きってことなんでしょう。
聴くところによると日本で栗の3大産地は熊本、愛媛、茨城だそうです。
この辺りだと茨城産が主に出まわっていると思うけど熊本や愛媛産の栗も食べてみたいなあ。
たぶん旬も西からだんだん東に上がってくるだろうから追っかけ栗も
いいかもしれない。
栗をおっかけて本州縦断。おっと瀬戸内海も渡らねば。
あの名店、キャンテイのモンブランは愛媛の中山という土地の栗を使っている
らしい。
最近松屋のデパ地下にお目見えして、おひとつ1200円なりのモンブランが
売られて話題になっておりますが、きっとこの中山産の栗に違いないね。
とまあ、話しはとりとめもない。
随〜分〜とお久しぶりの店主敬白・・・がこんなんで良いのだろうかと
思ったりしないでもないですが、これを読まれた方は、もっとそう思って
いるんだろうなあ。
そこは、ちょっと予定外の道草をしてしまった・・・ということで
お許し下さい。
じゃ、また。